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シャネルの歴史

シャネル 起源

1914年、ガブリエル・シャネルがパリに帽子店を創業。


シャネル 歴史

ガブリエル・シャネル(Gabrielle CHANEL)。1883年8月20日、フランスのオーベルニュ地方のソミュールに生まれる。通称ココ・シャネル(CC)。12歳の時に母を亡くし、少女時代から、姉妹とともにオバジーヌの修道院の孤児院で育ち、後にパリ南方のムーランの修道院で20歳頃までを過ごす。1901年に仕立屋、1903年に下着屋で働き始めるが、ムーランの街にやってくる軍人たちと踊りに行くことが多く、陸軍士官のエティエンヌ・バルサンの愛人となる。この頃、歌手に憧れミュージック・ホールの歌い手となる。愛称の「ココ」は、当時のレパートリー「キ・カ・ヴィ・ココ」に由来している。


1909年、当時被っていた自作の帽子が評判となり、バルサンの援助のもと、マルゼルブ大通り160番地で帽子のアトリエをオープン。ここは、裕福な人の住む独身男性用アパルトメントで、バルサンが自分の借りていた部屋を、彼女を援助するために提供したものだった。顧客が増えてきたため、翌10年末からは、帽子のブティックをカンボン通り21番地に移転。ここで婦人帽子店「シャネル・モード」として正式に認可を受けた。後にこの帽子店は、当時の愛人兼パトロンのアーサー・カペル(イギリス)の出資で買い取ることとなり、シャネルはカペルに対し、13年に返済を終えている。帽子店では、婦人服のデザインも始め、帽子用の素材だったジャージーでドレスを作ったのがきっかけとなり、14年に帽子店をメゾン「シャネル」としてリニューアルオープン。この年、高級リゾート地、ドーヴィルのゴントー・ビロン通りにもメゾンを開く。なお、ドーヴィルについては、アーサー・カペルの勧めがあったといわれる。


1916年には、スペイン国境付近のリゾート地ビアリッツに、本格的なクチュール一本の店をオープン。また、パリのカンボン通りの店をクチュールに転換し、本格的にクチュール界へ進出。この年、ベンチャー企業として数百人の従業員を抱えるに至り、それまでの銀行融資を全て返済している点は、驚愕に値する。この時期のシャネルの試みでは、それまで労働着・下着だったセーターを日常着として取り入れたり、下着素材のジャージーや男子服のラフさに着目したりした点が特徴的。胴の長い、スカートの短かい男っぽい服(ギャルソンヌ・ルック)は、あまりにも有名だ。16年には、ジャージーのシュミーズドレスが、『ハーパース・バザー』誌に取り上げられた。20年、カンボン通り31番地へ店舗を拡張。20年代前後のシャネルは、私生活や恋愛も多彩をきわめ、イゴール・ストラヴィンスキー、パブロ・ピカソ、ジャン・コクトー、セルゲイ・ディアギレフ、ピエール・ルヴェルディなどの芸術家たちと親しい関係を結び、とかく伝説的な話題が多い。


この頃、黒とベージュを基調にして、シックで、実用性と機能性を備えたシンプルなチューブ・ラインのドレスを次々と発表。例えば、ジャージーのテーラード・スーツ、カーディガン・スーツ、シュミーズ・ドレスなど。なお、第1次世界大戦期に、真っ先にミリタリー・ルックを取り入れたのは、他ならぬシャネルである。これらの作品を通じて、シャネルは、第1次大戦後の新しい女性像を明確にとらえた、シンプルで機能的なスタイルをアピール。マスキュリン感覚をもって、20年代のモード界をリードした。当時のシャネルの作風は、かなり論理的なもので、それまで単に飾りに過ぎなかったボタンやポケットに、現実的な役割を与えた。また、シンプルで短いチューブ・ドレスの飾りとして作られた模造宝石の装身具「ビジュ・ファンテジ」は有名。他にも、ふくらはぎ丈のパンタロン、「シャネル・ルック」とよはれるカーディガン・スーツ、ベルベティーンのジャケット、くるぶし丈のイブニング・ドレス、金属ボタンや大型フレームのサングラス、つま先で切り替えたベージュ×黒の底寸パンプス(シャネル・パンプス)、鎖と革のストラップで知られるキルティング・バッグ(シャネル・バッグ)など、100種類を超えるシャネル・スタイルは、今でも受け継がれている。今日、シャネルの典型とされるスタイルの原型が、既にこの時期に形成されていたのである。


1920年、南フランスのグラスで、調香師エルネスト・ボーと出会う。21年には、かの有名な香水「シャネル No.5」と、「シャネル No.22」の販売をスタートし、成功している。この香水は、80種類もの成分を優秀な科学者が混合した、全く新しい人工の香りとして人気を博す。24年には、ピエール・ヴェルタイマーの提言を受け、「シャネル香水会社」を設立。以後、毎年、香水の新ブランドを続々と発表。1950年のマリリン・モンローの発言「寝るときに身に纏うのは、シャネルの5番が5滴だけ」はあまりにも有名。


1934年、アクセサリー部門の工場、翌35年には、パリの北方ピカルディー地方に自社製品用の服地工場を建設。この頃、シャネルのメゾンは、従業員4000人を数えたという。その間、ロシア・バレエの舞台衣装をはじめ、アヴァンギャルドな舞台衣装、ハリウッド映画の衣装などを手がけた。シャネルの躍進は、30年代の留まるところを知らなかったが、第2次世界大戦が勃発し、39年に、香水とアクセサリー部門を除き、メゾンを閉鎖。コモ湖畔で引退生活を送った。


しかし、54年2月に、70歳でカムバック。当時、流行の最先端を進んでいたクリスチャン・ディオールの、復古的で、着せ替え人形タイプの「ニュールック」に対し、55年、シャネルは、機能的なツイード・スーツをぶつけた。このスーツは、上着とスカートのツー・ピース。スカートは膝丈で、デスクワークのどんな立ち居振る舞いにも適した。丸い襟元のシンプルな上着の下に白のブラウスがさりげなく豪華さを演出していた。肩からヒップまで直線的に下りるラインを際だたせた、このツイード・スーツ(通称「シャネル・スーツ」)は、当初フランスでは不評だったが、女性のエグゼクティブの台頭がめざましかったアメリカで人気が爆発。アメリカに遅れること10年、女性の高学歴化が60年代に進んだフランスでは、70年代に入って、ようやくシャネル・スーツが有名になる。以後、ディオールのニュールックにもまして、このシャネル・スーツは世界的な大流行となった。


このとき、シャネル・スーツは、20年代のシャネルが編み出した基本的なラインを維持しながらも、ツイードがジャージーにとって代わり、色調が明るく、一層、若々しいルックになっていた。なお、ツイードのスーツの原型は28年。また、ツイード自体は、元ロシアの詩人だったイリア・ズダネヴィッチが、31年から34年にかけてシャネル工場の技術部長を務めている間に開発したものである。71年1月、コレクションの準備期間中、ホテル・リッツの一室で急死。没後もメゾンは継続し、74年、アトリエのチーフだった、ジャン・キャゾボンとイヴォンヌ・デュデルがグリフを継いで製作にあたった。シャネルは、グレと同様、生涯プレタポルテ部門をもたなかったが、77年にシャネル香水会社が、スティリストのフィリップ・ギブルジェを招き、プレタポルテ部門と専用ブティックをオープンした。こちらは、同年秋から展示が始められた。


83年、ドイツ人デザイナー、カール・ラガーフェルドが芸術顧問、オートクチュール・コレクションの責任者として赴任。ラガーフェルドの着任とともに、シャネル・ブームが世界的に再燃した。89年春夏のコレクションでは、ピアリッツのココ・シャネルを思わせるような、若々しい避暑地のファッションを発表している。また、同83年、モンテーニュ大通りにブティックを開店した。当店では、パッケージや時計のデザインはジャック・エリュー、調香師はジャック・ポルジュ、美容部門はドミニク・モンクルトワと、エディ・モラヴェワが担当。

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